民主主義は自由で平等な制度だと思っていたけど、違うの?
民主主義が、自由でも平等でもないと言えるのはなぜ?
そんな疑問にお答えしましょう。
筆者は長年、民主主義は自由で平等な制度だと思ってきたのですが、どうも違うんじゃないかと感じてきました。
ここ数年の世界の異様さ、特に日本の政治や経済の支離滅裂さを目の当たりにして、みなさんもそう感じていませんか?
そこで今回は、民主主義は自由で平等な制度だと思ってたけど実は違うんじゃないか?と題して、詳しく考察してみたいと思います。
民主主義は自由で平等な制度だと思ってたけど実は違うんじゃないか?
民主主義は本当に自由で平等な制度なのかどうかを考える前に、まずは民主主義とは何かについて。
民主主義という言葉を調べてみると、
人民が権力を所有し行使する政治形態。
現代では政治形態だけでなく、広く一般に、人間の自由と平等を尊重する立場をいう。
デジタル大辞泉 民主主義|コトバンク
とあります。
だけど、大したことない病気のために、中身のよく分からない注射を、国民全員に半強制的に打たせようとすることが、本当に自由と平等を尊重していると言えるでしょうか?
大いに疑問です。
多数派と少数派
民主主義が自由で平等ではないと筆者が思う理由は、どうしたって対立や分断は生まれ、それが不自由や不平等につながるから。
民主主義というと、多数決を思い浮かべる方も多いと思います。
筆者もその一人です。
ただ多数決を例にあげると、民主主義=多数決ではないとの反論もあるみたいですが、
民主主義という用語は古代ギリシャで「多数者の支配」を意味し
Wikipedia 民主主義
とあるので、このまま多数決を例に、民主主義について考えてみます。
ものごとを多数決で決めると、必ず多数派と少数派が生まれますよね。
そして、多数派の意見が全体の総意として採用されるわけです。
これはこれで仕方のないことだとは思います。
なぜなら、100%全員が納得するなんてことは、不可能に近いと思うから。
だから、どこかで妥協点を見つけて、賛同の多い方の意見でものごとを進めていくのが、結果的にはより多くの人の声を反映しているから、まあ民主的なやり方だよね、というのは分かるんです。
だけど筆者は、それは実は建前なんじゃないかと感じてきているんです。
あるいは、実はまったく逆の、本来の目的があるんじゃないかと。
どういうことかというと、
民主主義は自由と平等でいいものだけど、どうしても対立や分断は生まれてしまいますよね
ということではないんじゃないかと言うことです。
本当は、
多数派と少数派という対立や分断を生み出したいから民主主義が造られ、しかもそれが良いものだと思わされている
ように感じるんです。
全員がかくれんぼしなきゃけないのか?
例えば何人か集まって「遊ぼうよ」となったとしましょう。
すると、かくれんぼの方がままごとより人数が多かった。
だから全員でかくれんぼをして遊びましょう、となる。
一見、民主主義的なフェアな決め方のようにも感じます。
だけど、やっぱりままごとしたい人は、ままごとをしたいですよね。
本当はままごとしたかったのに、かくれんぼに決まったから、かくれんぼをしなきゃいけないというのは、なんか理不尽というか、悲しくないですかね。
だけど、民主主義だから仕方ないとか、それが大人の世界だとか理由をつけて、なんか正当化しているようにも感じるんですよね。
こんなことをいうのは、大人げないですかね?
やりたいことやればい
かくれんぼをするしないが、民主主義の例として適切かどうかはよく分かりません。
そして「じゃあ、他に方法はあるのかよ?」という意見もあるかもしれません。
なら、かくれんぼしたい人はかくれんぼして、ままごとしたい人はままごとすればいいんじゃないですかね。
寝てたい人は寝てればいい。
だって、本当に自分がしたいことをするのが、一番能力を発揮できると思いませんか?
やりたくないことをイヤイヤやっても、手を抜いたり、適当に済ませたりってことありますよね。
仕事なんて、だいたいそんな感じじゃないですか?笑
世の中の働く人全員が、本当に自分のやりたい仕事をしていたら、とんでもない成果が生まれると思うんです。
それでなくても、日本人は勤勉で、手先も器用で、技術力も高いと言われています。
そんな人たちが、本当の自分の才能をフルに全開させたら…
どんな世の中になるんだろうと、ちょっとワクワクしませんか?
それこそが本当の民主主義で、自由で平等な社会なんじゃないかと思うんですよね。
今の日本は、その全く逆ですよね。
ほぼ全てと言っていいくらい多くの人が、やりたくない仕事を、誰かのために、誰かから言われてやっている。
かつての筆者もそうでした。
本当にやりたいことを我慢しながら、でも自分にはその自覚もなく、それが当たり前だと思って日々をやり過ごしていました。
昔のこととはいえ、本当にもったいなかった。
民主主義じゃなく、何主義ならいいの?
ここまで、民主主義は本当に自由で平等な制度なのか?についていろいろと考察してきましたが、いかがだったでしょうか?
民主主義が、なんだか疑わしいのは分かった。
とはいえ、
民主主義以外に自由で平等な制度が他に何かあるのか?
社会主義や共産主義の方がいいというのか?
などと思われるかもしれません。
ですが筆者は、民主主義と社会主義のどちらがいいとか考えること自体が、そもそも対立や分断を生むように感じています。
優劣とか上下関係みたいなものも、生まれてしまいますよね。
なので、もう何もしないで放っておくのが一番なんじゃないかと思ってます。
冗談ではなくて、真剣にそう考えているんです。
国とか政治とかも、やろうとしないということです。
すべてを自然に任せればいいんじゃないかと。
何を無責任なことを言っているんだ。
そんなことをしたら、秩序がなくなって荒れ放題になってしまうじゃないかと思われるかもですが、本当にそうでしょうかね?
蟻は、誰の命令があるわけでもなく、自然に群れを作って、巣を掘って、食べ物を集めて生きてると思うんですよね。
もし仮に命令系統があったとしても、それは生き物の本能として、自然に生まれ出たものじゃないですかね。
人間も基本的には、同じだと思うんですよね。
必要があれば必要なことが起こるし、無理してやらなきゃいけないことは、本来必要のないことだと思うんです。
ちなみに、自分が本当にしたいことが分からない…という方は、ぜひこちらをお読みください↓
実は、世界は人の数だけある
古代インドの考え方に、梵我一如というものがあります。
梵というのは大きな宇宙で、我は小さな宇宙、つまり我々一人一人ということです。
そして、その2つに区別はなく、実は一緒だよ、という考え方です。
そもそも民主主義とか国家という考え方って、何か一つの大きな器があって、その中に人類が集まって生きているということですよね。
だから、それだけ大勢の人を統制するために、国を作ったり、ルールを作る必要がある、と。
そうではなく、実は一人一人が、ひとつひとつの世界なんだと、大昔のインドの人たちは考えていたみたいなんですよね。
そうした世界の集まりを、遠くから離れてみると、それがさらに大きな世界をも形作っている。
一つの箱の中に、大勢の人を詰め込んで管理しようとするから、対立や争いが起こると思うんです。
だけど、一人一人がすでに一個の世界なんですよ。
そのたくさんの世界が集まった集団も、また世界なわけです。
ちなみに、この梵我一如の考えは、こちらの本がとても分かりやすくておすすめです↓
一人一人の小さな世界が自由で平等であれば、大きな世界も必然的に自由で平等になるわけです。
今の日本って、真逆じゃないですか?
「一部の誰かの自由と平等のために、おまえら全員我慢しろ」みたいな。
そんなの、やっぱいやだよね
だけど実はもう間もなく、そんなおかしな仕組みは終わって、本当に自由で平等な世の中がやってくる、いやもうそうなりつつあると、筆者は確信をしています。
かつては民主主義っていう、自由で平等そうだけど、実は人々の争いを生む仕組みがあってさ…なんていう日も、そのうちやって来るように思います。
みなさんはどうお感じになるでしょうか?
ちなみに、ここ数百年の地球上の争いは、こうすれば簡単になくせるというお話しを、こちらに詳しく書きました↓
民主主義は自由で平等な制度だと思ってたけど実は違うんじゃないか? まとめ
以上、民主主義は自由で平等な制度だと思ってたけど実は違うんじゃないか?というテーマで解説をしました。
民主主義は社会主義との比較で語られることが多いと思うんですが、親会社は同じだよね、というお話しは、こちらに詳しく書きました↓

民主主義同様、法治国家というのも名ばかりじゃないか!と思う方は、こちらもぜひどうぞ↓
今の日本が生きづらいなあ…とお感じの方はこちら↓
民主主義はどうもおかしいぞ、という話は動画でもしていますので、こちらもぜひご覧ください↓
最後までお読みいただき、ありがとうございました。