人はなぜ悩むのか?ブッダは「関係」を持つから悩むんだと言った

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ブッダ
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この記事を書いた人

瞑想・ヨガ講師|会社員時代にうつ経験(30歳〜約10年間)|その後ヨガ・呼吸・瞑想指導歴10年15,000人以上(E-RYT500 YACEP)|YogaJaya Baseworks講師|身体とメンタルの調整法・執着の手放し方・食生活・人間関係など、人生で本当に必要なことを発信|スーツケース1つで生活してます|修行中

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人はなぜ悩むのか?

おそらく誰もが、常に悩んでばかりいるように思います。

お昼何食べようとか、どうやったらモテるだろうとか、私は一体どこから来てどこへ行くのだろうとか。

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人はなぜ悩むのか?ブッダは「関係」を持つから悩むんだと言った

みなさんは悩みがあるでしょうか?

筆者は悩みだらけです。

悩みが服を着て歩いていると言っても過言ではないかもしれません。

悩みとはそもそも、

思いわずらうこと。心の苦しみ

コトバンク 悩み

とあるように、あまりハッピーなものではなさそうです。

そして、その悩みを何とかしたいなあ、なるべく悩まずに楽しく生きていけたらいいなあと思い、ヨガや古代インドの考え方、特にブッダの教えなどを学んだり実践したりしています。

そこで今回は、人はなぜ悩むのか?ブッダは「関係」を持つから悩むんだと言ったと題して、あれこれ考えてみたいと思います。

悩みはどこからやって来る?

人はなぜ悩むのか?

結論から言うと、あらゆる悩みはすべて関係から起こると言えるかと思います。

ブッダが、そのようなことを言ってるんですよね。

ブッダというのは、漢字で書くと仏陀、あるいは釈迦とか釈尊とかとも呼ばれているあのブッダです。

ブッダの呼び名の違いについては、こちらに詳しく書きました↓

ブッダがどういうことを言っていたかというと「いろいろなものごとと関係を持つから、悩みや迷いが生まれるんだよ」と。

筆者が直接ブッダから聞いたわけじゃないので、まあそんなことを言っていたよといろいろな文献に書かれていたり、記録が残されているということです。

男と女

人はなぜ悩むのかについて、ブッダが語った言葉として、スッタニパータという文献にこのような記述があります。

交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

要約すると、

男と女が関係を持ったら情が湧くよね。情が湧くと、後々苦しくなるよね。

異性と出会ったら、関係を持ちたくなっちゃうでしょ。だから人と会うな。喋るな。一人で生きろ。

みたいなことでしょうか。

ブッダはここまで言ってるんですよね。

そうまでして、あらゆる関係を避けるべきだと。

またブッダはこうも言っています。

眼で視ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。

分かりやすく言うと、

人間は感覚器官を持っているよね。目や耳、口とか

そこから刺激が脳に伝わり、結果感情が起こり、それが悩みを生じさせるのだから、あらゆるものから距離を置きなさい

のようなことかなと思います。

快楽に悩む

人はなぜ悩むのかについて、ブッダは次のようにも言っています。

おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる。ーこれは破滅への門である。

人を悩ませるものは、なにも痛みや恐怖を伴うものだけとは限りません。

快楽だって悩みの素になり得ますよね。

性行為なんていうのは、快楽の最たるものではないでしょうか。

だからブッダは、性行為も無闇にするもんじゃないよみたいなことを言っています。

あとは食欲もそうですよね。

あれを食べたい、もっと食べたいと貪るでない、と。

ちなみに上でご紹介した言葉は、ブッダの言葉を記した数ある文献の中で最古のものとされる「スッタニパータ」から引用しました。詳しくはこちら↓

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人は大昔から悩んでいたらしい

このように「なぜ人は悩むのか」というテーマは、大昔から存在していたようです。

その壮大な疑問に対して、ブッダは明確な答えを示していたのですが、上で紹介したとおり、その考え方は相当に厳しいものですよね。

だけど…

しんどいのイヤじゃないですか。
気持ちいいことしたいじゃないですか。

というわけで、ブッダの教えは素晴らしいよね、だけどちょっとストイックすぎるよね…

みたいな感じで、もっと多くの人が実践しやすいように「まあこのくらいは許容してもいいよね」みたいなアレンジが、ブッダの死後、だんだん起こってきたわけです。

それがいわゆる大乗仏教というもので、それが中国に伝わり、中国から日本に伝わった。

今の日本の仏教というのは、そういった変遷を遂げているようです。

ちなみに、ブッダの考えにより近いものは初期仏教部派仏教上座部仏教などと呼ばれています。

すべての関係を断つことは可能か?

さあ、関係を断てば悩みがなくなるらしいということは分かりました。

では断てるか?というと…なかなか難しいわけですよね。

断てるならもう断っとるわい!

ブッダがいた頃というのは、今から2500年ぐらい前と言われています。

今と比べたら、モノとか情報なんてほんのわずかだったと思うんですよね。

そんな頃でさえ、人やモノとの交わりを持たないというのは、かなり難しいことだったわけです。

であれば、モノや情報で埋め尽くされている今のこの社会で、どんなものとも一切の関係を持たずに生きていくというのは、ほぼ不可能だとも思われます。

ただ、完全にあらゆる関係を持たないことは難しいと思いますが、少しずつ、部分的に減らしていくことなら、なんとかなりそうじゃないですか?

例えば、なるべくマスメディアの情報は目にしない、とか。

ちなみに、テレビは本当のことを伝えてくれていないので、一切見ない方がいいと筆者は考えています。

詳しくはこちらに書きました↓

あるいは、自分が今いるコミュニティーについて「本当に自分はここにいたいのか?」「ここでないと本当に生きていけないのか?」と自分に問いかけることはできると思うんですよね。

惰性で続けていることって、けっこう多くないですか?

自分が今いるコミュニティーというのは、会社だったり家族だったりどこに住んでいるかというようなことです。

そこから出るというのは、やはりなかなか大変なことですもんね。

だから本当はここにいたくないけど、出ようとするとちょっと面倒くさいからこのままでいいか…みたいなことないですか?

ちょっと我慢すればいいだけだからって。

かつての筆者はそうでした。

筆者が、20年続けた会社員人生を終わりにした時の話は、こちらに書きました↓

ひとりって恥ずかしいことなの?

先にも紹介したように、ブッダは「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」と言っています。

サイというのは頭の真ん中に、太いツノが一本だけズドンと生えていますよね。

一人で細々と隠れるように生きるのではなく、堂々と自分の信じた道をまっすぐ歩いていけばいいというような意味で、犀の角と言ったんだと思います。

詳しくはこちらに書きました↓

今の世の中って、一人でいることや仲間外れになっちゃったみたいなことが、あまりよくないこと、恥ずかしいことという風潮がありますよね。

おひとりさまとか、ぼっちとか。

そんな作られた価値観にだまされなくていいですよ。

だって一人で生きていけるっていうことは、それだけ自分に自信を持っているということだし、生きる強さがあるということですよね。

だから我慢して、周りと同じように生きていく必要なんてありません。

逆に一人で生きていくことで、さまざまな悩みから解放されるとも思います。

友達少ないとか周りと話が合わないからって全然卑下することではなく、むしろ素晴らしいことだし、自信を持っていいと筆者は強く思っています。

ブッダもそう言っています。詳しくはこちら↓

人はなぜ悩むのか?ブッダは「関係」を持つから悩むんだと言った まとめ

以上、人はなぜ悩むのか?ブッダは「関係」を持つから悩むんだと言ったというテーマでお伝えしました。

所有するから悩むんだともブッダは言っています。詳しくはこちら↓

そもそも悩みなんてないんだから、悩まなくてもいい、とも↓

筆者は、所有物をスーツケース1つにしました。

持ち物を手放そうと思った経緯と方法は、こちらに詳しく書きました↓

人はなぜ悩むのか?それは関係を持つからだ、というお話は、こちらの動画でもぜひどうぞ↓

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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